春風の風太
今日は、銀次親分の前にエフにいた茶トラの子猫、
風太のお話をしたいと思います。
風太は、2007年8月12日に、エフの土蔵の裏で保護しました。
当時生後約3~4ヶ月でした。
保護した時点で片足を骨折していて、
レントゲンを撮ったらもっと重篤な外傷が発見されました。
横隔膜ヘルニア。
横隔膜は、肺や心臓(胸腔)と、それ以外の臓器(腹腔)を隔てています。
それが破れると、腹腔の臓器が胸腔に入り込み、肺を押しつぶします。
肺は膨らむ余地がなくなり、呼吸ができずに死んでしまいます。
先天的なものもありますが、風太の場合は骨折もあって後天的な外傷のようでした。
車か自転車にでも轢かれたのか…
ズレた臓器を元に戻して、横隔膜をつなぎ合わせるのは成猫でも難しい手術で、
このくらい小さい猫にはできない、横隔膜は再生しない、
今夜のうちにも死んでしまうでしょう、という診断でした。
たとえ「できる」と言われていたとしても、会ったばかりの猫に
成功率3割の大手術を受けさせるかどうか、費用の面を考えても
その後のことを考えても、即座にYESとは言えないことです。
目と目が合ったご縁だし、では最期を看取ります…
とエフに連れて帰りました。
ビルの隙間のゴミ溜めで死ぬよりもいくらかマシだろう、と。
その夜は缶詰をお湯で溶いたものを食べさせました。
弱々しかったけれど、少し食べました。
翌日、うんちが出ました。
ん? 内臓がめちゃくちゃなはずなのに、
食べてうんちしてる…(しかもけっこう立派な…)
どうにか通り道があるってこと?
ともあれ、食べられるなら食べなさい。
「その日のうちに」死んでしまうはずが、翌日もその次の日も
生きています。
保護して二日目の写真です。まだ目に生気がない感じです。
先生に、「まだ生きてますけど」と報告すると、
まずは一週間生き延びたならその先があるかも、とのこと。
一週間経って、「まだ生きてますけど」と報告すると、
じゃああと一週間、一ヶ月、三ヶ月、
と風太はどんどん記録を更新していきました。
保護から二週間目の顔。
私は自宅にも病気の猫がいるので、2匹も抱えるつもりではありませんでした。
あくまで看取るだけのつもりだったし、
生きているからといって、里親を探せる状態ではないことも明らかでした。
風太が生きたくて生きられるなら、それでいいけど…
先生にも前例がなく、なぜ風太が生きているのか、次は何をしたらいいのかはわからず、
「奇跡」とも言われたし、他の先生からは「ありえない」とも言われました。
エフの常連さんから、「うちには横隔膜ヘルニアで13歳のコがいる」と聞いて、
とても励まされました。
生きるコもいるんだ!
しばらくは目が離せない状態なので、風太を体にスリングで巻き付けて、
自転車通勤するようになりました。
風太も自転車はお気に入りで、揺られると気持ちよくてよくおもらししていました。
自宅に連れて帰って放してみると、普通の子猫と変わらず
やんちゃに走り回って探検します。
若さもあって、一ヶ月後には骨折も完治していました。
エフでは事務所に大型ケージを建ててその中でのんびり暮らしていました。
保護から一ヶ月目の顔。
瀕死の重傷を負いながらも歯だけ剥いて威嚇していた風太も、
ヒトの愛情や安心は、数日で受け取れるようになりました。
内臓が不安定なため、銀次親分のようにカフェには降ろさなかったけれど、
ヒトは好きでした。いろんな人に抱っこしてもらいました。
風太が抱っこが好きだったのは、ヒトの肩に胸部を乗せていると
安定して楽だったのかもしれません。
いつも誰かの肩にぶらさがっていました。
自宅にいるれんちゃんのことも大好きでした。
れんちゃんは生まれつき盲目で、ケージの中だけで暮らしています。
ケージの高さは60cmありますが、風太は軽々跳び越えて侵入し、
れんちゃんに寄り添って寝たり、ごはんを盗み食いしたりしていました。
環境の変化に弱いれんちゃんなので、子猫を保護してどうしようもないとき以外は
他の猫といっしょにしたことはありませんでしたが、
なぜだか風太のことは受け入れてくれていました。
10月には、展覧会の広報のための写真撮影に挑戦しました。
(エフの猫はこうしてすぐ「働かされ」ます)
写真家の塩澤秀樹さんが、私の自宅を仮スタジオにして撮ってくれた一枚です。
メインはオーストリアの陶芸家、トーマス・ボーレの作品「ちび陶」です。
10月に展覧会をしたオランダ人アーティスト、J.P. ホルは
風太とれんちゃんにJPハットを作ってくれました。
「忘れ去られたものたち(forgotten)」が、再び命を得るお守りです。
2008年3月にはようやく体重が2kgを超え、去勢手術まで乗り越えましたが、
5月末には危篤に陥りました。
レントゲンで見た両肺は完全に押しつぶされていて、
素人の私が見ても、こりゃあ生きてる方がおかしい、と思えるほどでした。
奇跡的なバランスで確保されていた肺のわずかな隙間が、
何かの拍子にズレるともうアウトなわけです。
おうちにいた方が安らかでしょう、苦しむようだったら連れて来てください、
ということで、再び最期を看取るために連れて帰りましたが、
またまた復活して、6月中旬にはぴょんぴょん跳び回っていました。
一日一日を確かめるようにいっしょに生きて来た風太。
最初は恐る恐るの暮らしでしたが、あまりに元気で活発で俊敏で、
時には横隔膜のことを忘れてしまうくらいでした。
ガスレンジの上にも冷蔵庫の上にも吊り戸棚にも跳び乗るし、跳び降ります。
跳ぶ衝撃でまた内臓がずれてしまうのではと心配で、止めることもありましたが
猫ですから聞くわけありません。
むしろ動き回ることで体力をつけているようでもありました。
市販のおもちゃは不要で、何より好きなのは丸めたティッシュでした。
華麗なムーンサルトで空中キャッチしていました。
引っ越しのときには冷蔵庫の下からティッシュ玉が30個くらい出てきました。
風太は、手足が長く、細くてすらりと美しい少年でした。
何度虫下しを飲んでも、複雑に押しつぶされた腸のヒダに隠れた寄生虫が
風太の食べたごはんを食べてしまうので大きくなれないというのもありました。
最大で3kg、れんちゃんとほぼ同じ大きさにまで成長しました。
基本的に猫は、出入りの多いエフではなく、家にいてくれるのが安心なのですが、
状態が悪くなると薬を飲ませる時間や排泄を見ていなければならず、
れんちゃんをエフに置いて風太が家で留守番していたり、その逆になったり、
様子を見ながら交代していました。
2009年1月下旬から、自宅に帰っても迎えに出て来ない日があったり、
今まで行かなかった場所に隠れていたり、いつもまっすぐ私の顔を見つめていたのに、
顔を背けたりするようになりました。
こういう行動の変化は、お別れのサイン、
すなわち症状が悪化しているサインなのだと後でわかりました。
猫は弱った姿や死ぬ姿を見せないといいます。
外に行かれるコは、死に際にそっと姿を消すのだそうです。
でも風太のように外に出ないコは、それでも家の中で、
姿を消そうとするのです。
1月30日、風太はぱたりとごはんを食べなくなりました。
様子を見つつ、あまりにも食べないときは病院で点滴を受けました。
手術も不可能で薬も助けにならい風太を、
何としてでも延命したいという気持ちはありませんでした。
少しでも楽に過ごせるようにと、自宅での点滴や、酸素室の導入が始まりました。
酸素室と酸素製造機のレンタルにおいては、さすがに費用の負担が心配になりました。
いつまで続くんだろう、やっぱり病気の猫2匹を抱えると破綻するんだ、
と弱気にもなりました。
振り返ってみれば、たった10日で不要になったので、
できることは何でも、と言いながら頭の中で計算してげっそりしたことを後悔しました。
数日に一度、肺に溜まる水を抜くために病院に行きました。
驚くべき量の水が注射器で抜かれていきます。
最後に撮ったレントゲンでは、風太の腸は胸のあたりにありました。
腹部には何も残っておらず、肺の周りはまったく隙間がありませんでした。
2009年2月24日の午後6時頃、風太は病院で息を引き取りました。
最期を看取るはずだった私は、風太のほんとうの最期には立ち会えませんでした。
具合が悪そうだった風太を病院の酸素室に預けて、休みの日に珍しく外出していたのです。
携帯電話を使っていない私には、先生も連絡のしようがありませんでした。
8時近く、病院に電話して初めて、すでに亡くなっていたことを知りました。
私に代わって風太を看取ってくださった病院の先生方全員、
引き取りに付き添ってくれた友人、
いっしょに通夜をしてくれた友人たち、
お線香をあげに来てくれた友人たち、
四十九日を迎えるまで欠かさずエフに通ってくれた友人、
引きこもった私に食べ物を届けてくれた家族、
みんなに支えてもらいました。
カフェにいる銀次親分を見て
「猫は好きでまた飼いたいのだけど、別れが辛くてもう二度といや…」
とおっしゃる方は多いです。私もそうです。
しばらく立ち上がれない日々が続きました。
残ったれんちゃんの存在が唯一「しっかりしなくては」と思わせてくれました。
風太が亡くなった日かられんちゃんも血尿を出していました。
猫との生活は続きます。
こうすればもっと生きられたのではないか、
そもそも保護したときに風太を追いつめた私が横隔膜を破いたのではないか、
あの日外出なんてしなければ…
後悔ややり直したいことはいくらでもあります。
友人たちは、生きた時間の長さではなく濃さだ、
風太は誰よりも幸せだった、と言ってくれましたが、
一年半という時間はあまりにも短く、辛い別れでした。
先生も「風太くんは十分すぎるほどがんばりました。
これ以上がんばってとは言えません」と言い、ほんとうにその通りでした。
それでも、風太はもっともっと楽しくしあわせな時間を過ごせたのではないかと
どうしても考えてしまう日々でした。
この先れんちゃんにも何かあったら、私は乗り越えられるのだろうか、
自信はありませんでした。
猫と暮らし始める日を、自分で選んだことはありません。
いつも猫の方からやってきます。
風太が亡くなって半年、先生から「そろそろ新しいコはどうですか、
今度は健康なコをね」と里親のお誘いをいただいたとき、
まだまだ全然そんなのムリ、風太への申し訳なさでいっぱいです、と思っていました。
同時に、エフの周りでボロボロの銀次を見かけるようになったけれど、
あえて関わろうとは思いませんでした。
かわいそうなコは外にはいくらでもいる。
全部と関わることなんてできない。見つけるたびに拾ってくるわけにいかない。
いつも自分の環境と経済状況と相談しなければ、逆に無責任なことになってしまうから。
それにしてもどうして、病気のコばっかり…と思うこともありますが、
風太は骨折だけだと思ったら横隔膜が破れていたし、
れんちゃんは盲目なだけだと思ったら脳障害で癲癇発作が出るようになったし、
銀次は風邪でも引いているのかと思ったらFIVキャリアだったし、
保護した時点ではほとんど何もわかりません。
それは健康なコでも同じだと思います。
最初の検査で問題ナシと出れば里親さんに恵まれることもできますが、
予期せぬ病気がいつ出るかは誰にもわかりません。
それはヒトも同じなのに、「ペット」は癒してくれるかわいいだけの存在と
思い込んでいる人たちが、予想外のやっかいなことが起きた時に
動物を捨てるのだと思います。
健康な状態だけを望んでいれば、突然の病気に立ち向かうことはできません。
引き受けたからには、できるかぎりのことをしてあげたい。
費用面や環境の整備も含め、自分の「できるかぎり」がどこまでなのかを
知っておくことも必要です。
そんな自信もなくなって、できるだけ気にしないようにしていた銀次ですが、
銀次は「ここに決めたんです」とばかりにエフの軒先に座り込むようになりました。
今から思えば、風太が銀次に「今ココ、チャンス!」と教えてあげたように思います。
風太が生きていたなら、どんな状態のコであれ当然3匹目はありえませんでした。
ご近所から「あの猫汚いから保健所を呼ぶよ」と言われたことがきっかけで
去勢手術のみの目的で保護し、銀次が抱えていた病気を知ったわけですが、
またも病気のコが2匹になってしまうのですから、当然悩みました。
悩んでも答えなんて出ないというか、答えは同じというか、
その時その時の「精一杯」は、猫たちから教わっています。
治療の判断は、主に獣医さんの意見を参考にするわけですから、
信頼でき、共に取り組んでくださる(と自分が信じられる)先生と出会うこともたいせつです。
それでも動物の治癒力や生きようとする力は、
医学的診断を軽々と跳び越えることも多いです。
風太もれんちゃんも、深刻な症状も統計も余命の宣告も安楽死のタイミングも
ほとんどスルーしました。
銀次のことも、こうなった以上は銀次の精一杯の生に寄り添ってあげよう、
と徐々に思うことができるようになりました。
病気は「イコール死」ではなく、「どう生きるか」そのものであると、
病気を怖れることのない動物たちから教えられます。
「かわいそう」なんて言葉がまったく当てはまらないほど、彼らは常に
気高く強く、前だけに向かって生きています。
自分がそうなったときに応用できるかはまったく自信がありませんが、
たいせつなことを日々たくさん教わっています。
風太が風になって、今日で二年が経ちました。
四十九日の頃は、桜が満開でした。
春風が吹くと、風太の黄金の毛が頬にあたる感触を思い出します。
風太は今でも、浅草の龍神さまの背中で風を切って、
れんちゃんと銀次を守ってくれています。
なので銀次親分は今日も元気です。
風ちゃん、エフに来てくれてありがとう。
風太アルバム ★
Gallery ef, Asakusa, Tokyo
旧ブログ『今週の銀次親分』
風太のお話をしたいと思います。
風太は、2007年8月12日に、エフの土蔵の裏で保護しました。
当時生後約3~4ヶ月でした。
保護した時点で片足を骨折していて、
レントゲンを撮ったらもっと重篤な外傷が発見されました。
横隔膜ヘルニア。
横隔膜は、肺や心臓(胸腔)と、それ以外の臓器(腹腔)を隔てています。
それが破れると、腹腔の臓器が胸腔に入り込み、肺を押しつぶします。
肺は膨らむ余地がなくなり、呼吸ができずに死んでしまいます。
先天的なものもありますが、風太の場合は骨折もあって後天的な外傷のようでした。
車か自転車にでも轢かれたのか…
ズレた臓器を元に戻して、横隔膜をつなぎ合わせるのは成猫でも難しい手術で、
このくらい小さい猫にはできない、横隔膜は再生しない、
今夜のうちにも死んでしまうでしょう、という診断でした。
たとえ「できる」と言われていたとしても、会ったばかりの猫に
成功率3割の大手術を受けさせるかどうか、費用の面を考えても
その後のことを考えても、即座にYESとは言えないことです。
目と目が合ったご縁だし、では最期を看取ります…
とエフに連れて帰りました。
ビルの隙間のゴミ溜めで死ぬよりもいくらかマシだろう、と。
その夜は缶詰をお湯で溶いたものを食べさせました。
弱々しかったけれど、少し食べました。
翌日、うんちが出ました。
ん? 内臓がめちゃくちゃなはずなのに、
食べてうんちしてる…(しかもけっこう立派な…)
どうにか通り道があるってこと?
ともあれ、食べられるなら食べなさい。
「その日のうちに」死んでしまうはずが、翌日もその次の日も
生きています。
保護して二日目の写真です。まだ目に生気がない感じです。
先生に、「まだ生きてますけど」と報告すると、
まずは一週間生き延びたならその先があるかも、とのこと。
一週間経って、「まだ生きてますけど」と報告すると、
じゃああと一週間、一ヶ月、三ヶ月、
と風太はどんどん記録を更新していきました。
保護から二週間目の顔。
私は自宅にも病気の猫がいるので、2匹も抱えるつもりではありませんでした。
あくまで看取るだけのつもりだったし、
生きているからといって、里親を探せる状態ではないことも明らかでした。
風太が生きたくて生きられるなら、それでいいけど…
先生にも前例がなく、なぜ風太が生きているのか、次は何をしたらいいのかはわからず、
「奇跡」とも言われたし、他の先生からは「ありえない」とも言われました。
エフの常連さんから、「うちには横隔膜ヘルニアで13歳のコがいる」と聞いて、
とても励まされました。
生きるコもいるんだ!
しばらくは目が離せない状態なので、風太を体にスリングで巻き付けて、
自転車通勤するようになりました。
風太も自転車はお気に入りで、揺られると気持ちよくてよくおもらししていました。
自宅に連れて帰って放してみると、普通の子猫と変わらず
やんちゃに走り回って探検します。
若さもあって、一ヶ月後には骨折も完治していました。
エフでは事務所に大型ケージを建ててその中でのんびり暮らしていました。
保護から一ヶ月目の顔。
瀕死の重傷を負いながらも歯だけ剥いて威嚇していた風太も、
ヒトの愛情や安心は、数日で受け取れるようになりました。
内臓が不安定なため、銀次親分のようにカフェには降ろさなかったけれど、
ヒトは好きでした。いろんな人に抱っこしてもらいました。
風太が抱っこが好きだったのは、ヒトの肩に胸部を乗せていると
安定して楽だったのかもしれません。
いつも誰かの肩にぶらさがっていました。
自宅にいるれんちゃんのことも大好きでした。
れんちゃんは生まれつき盲目で、ケージの中だけで暮らしています。
ケージの高さは60cmありますが、風太は軽々跳び越えて侵入し、
れんちゃんに寄り添って寝たり、ごはんを盗み食いしたりしていました。
環境の変化に弱いれんちゃんなので、子猫を保護してどうしようもないとき以外は
他の猫といっしょにしたことはありませんでしたが、
なぜだか風太のことは受け入れてくれていました。
10月には、展覧会の広報のための写真撮影に挑戦しました。
(エフの猫はこうしてすぐ「働かされ」ます)
写真家の塩澤秀樹さんが、私の自宅を仮スタジオにして撮ってくれた一枚です。
メインはオーストリアの陶芸家、トーマス・ボーレの作品「ちび陶」です。
10月に展覧会をしたオランダ人アーティスト、J.P. ホルは
風太とれんちゃんにJPハットを作ってくれました。
「忘れ去られたものたち(forgotten)」が、再び命を得るお守りです。
2008年3月にはようやく体重が2kgを超え、去勢手術まで乗り越えましたが、
5月末には危篤に陥りました。
レントゲンで見た両肺は完全に押しつぶされていて、
素人の私が見ても、こりゃあ生きてる方がおかしい、と思えるほどでした。
奇跡的なバランスで確保されていた肺のわずかな隙間が、
何かの拍子にズレるともうアウトなわけです。
おうちにいた方が安らかでしょう、苦しむようだったら連れて来てください、
ということで、再び最期を看取るために連れて帰りましたが、
またまた復活して、6月中旬にはぴょんぴょん跳び回っていました。
一日一日を確かめるようにいっしょに生きて来た風太。
最初は恐る恐るの暮らしでしたが、あまりに元気で活発で俊敏で、
時には横隔膜のことを忘れてしまうくらいでした。
ガスレンジの上にも冷蔵庫の上にも吊り戸棚にも跳び乗るし、跳び降ります。
跳ぶ衝撃でまた内臓がずれてしまうのではと心配で、止めることもありましたが
猫ですから聞くわけありません。
むしろ動き回ることで体力をつけているようでもありました。
市販のおもちゃは不要で、何より好きなのは丸めたティッシュでした。
華麗なムーンサルトで空中キャッチしていました。
引っ越しのときには冷蔵庫の下からティッシュ玉が30個くらい出てきました。
風太は、手足が長く、細くてすらりと美しい少年でした。
何度虫下しを飲んでも、複雑に押しつぶされた腸のヒダに隠れた寄生虫が
風太の食べたごはんを食べてしまうので大きくなれないというのもありました。
最大で3kg、れんちゃんとほぼ同じ大きさにまで成長しました。
基本的に猫は、出入りの多いエフではなく、家にいてくれるのが安心なのですが、
状態が悪くなると薬を飲ませる時間や排泄を見ていなければならず、
れんちゃんをエフに置いて風太が家で留守番していたり、その逆になったり、
様子を見ながら交代していました。
2009年1月下旬から、自宅に帰っても迎えに出て来ない日があったり、
今まで行かなかった場所に隠れていたり、いつもまっすぐ私の顔を見つめていたのに、
顔を背けたりするようになりました。
こういう行動の変化は、お別れのサイン、
すなわち症状が悪化しているサインなのだと後でわかりました。
猫は弱った姿や死ぬ姿を見せないといいます。
外に行かれるコは、死に際にそっと姿を消すのだそうです。
でも風太のように外に出ないコは、それでも家の中で、
姿を消そうとするのです。
1月30日、風太はぱたりとごはんを食べなくなりました。
様子を見つつ、あまりにも食べないときは病院で点滴を受けました。
手術も不可能で薬も助けにならい風太を、
何としてでも延命したいという気持ちはありませんでした。
少しでも楽に過ごせるようにと、自宅での点滴や、酸素室の導入が始まりました。
酸素室と酸素製造機のレンタルにおいては、さすがに費用の負担が心配になりました。
いつまで続くんだろう、やっぱり病気の猫2匹を抱えると破綻するんだ、
と弱気にもなりました。
振り返ってみれば、たった10日で不要になったので、
できることは何でも、と言いながら頭の中で計算してげっそりしたことを後悔しました。
数日に一度、肺に溜まる水を抜くために病院に行きました。
驚くべき量の水が注射器で抜かれていきます。
最後に撮ったレントゲンでは、風太の腸は胸のあたりにありました。
腹部には何も残っておらず、肺の周りはまったく隙間がありませんでした。
2009年2月24日の午後6時頃、風太は病院で息を引き取りました。
最期を看取るはずだった私は、風太のほんとうの最期には立ち会えませんでした。
具合が悪そうだった風太を病院の酸素室に預けて、休みの日に珍しく外出していたのです。
携帯電話を使っていない私には、先生も連絡のしようがありませんでした。
8時近く、病院に電話して初めて、すでに亡くなっていたことを知りました。
私に代わって風太を看取ってくださった病院の先生方全員、
引き取りに付き添ってくれた友人、
いっしょに通夜をしてくれた友人たち、
お線香をあげに来てくれた友人たち、
四十九日を迎えるまで欠かさずエフに通ってくれた友人、
引きこもった私に食べ物を届けてくれた家族、
みんなに支えてもらいました。
カフェにいる銀次親分を見て
「猫は好きでまた飼いたいのだけど、別れが辛くてもう二度といや…」
とおっしゃる方は多いです。私もそうです。
しばらく立ち上がれない日々が続きました。
残ったれんちゃんの存在が唯一「しっかりしなくては」と思わせてくれました。
風太が亡くなった日かられんちゃんも血尿を出していました。
猫との生活は続きます。
こうすればもっと生きられたのではないか、
そもそも保護したときに風太を追いつめた私が横隔膜を破いたのではないか、
あの日外出なんてしなければ…
後悔ややり直したいことはいくらでもあります。
友人たちは、生きた時間の長さではなく濃さだ、
風太は誰よりも幸せだった、と言ってくれましたが、
一年半という時間はあまりにも短く、辛い別れでした。
先生も「風太くんは十分すぎるほどがんばりました。
これ以上がんばってとは言えません」と言い、ほんとうにその通りでした。
それでも、風太はもっともっと楽しくしあわせな時間を過ごせたのではないかと
どうしても考えてしまう日々でした。
この先れんちゃんにも何かあったら、私は乗り越えられるのだろうか、
自信はありませんでした。
猫と暮らし始める日を、自分で選んだことはありません。
いつも猫の方からやってきます。
風太が亡くなって半年、先生から「そろそろ新しいコはどうですか、
今度は健康なコをね」と里親のお誘いをいただいたとき、
まだまだ全然そんなのムリ、風太への申し訳なさでいっぱいです、と思っていました。
同時に、エフの周りでボロボロの銀次を見かけるようになったけれど、
あえて関わろうとは思いませんでした。
かわいそうなコは外にはいくらでもいる。
全部と関わることなんてできない。見つけるたびに拾ってくるわけにいかない。
いつも自分の環境と経済状況と相談しなければ、逆に無責任なことになってしまうから。
それにしてもどうして、病気のコばっかり…と思うこともありますが、
風太は骨折だけだと思ったら横隔膜が破れていたし、
れんちゃんは盲目なだけだと思ったら脳障害で癲癇発作が出るようになったし、
銀次は風邪でも引いているのかと思ったらFIVキャリアだったし、
保護した時点ではほとんど何もわかりません。
それは健康なコでも同じだと思います。
最初の検査で問題ナシと出れば里親さんに恵まれることもできますが、
予期せぬ病気がいつ出るかは誰にもわかりません。
それはヒトも同じなのに、「ペット」は癒してくれるかわいいだけの存在と
思い込んでいる人たちが、予想外のやっかいなことが起きた時に
動物を捨てるのだと思います。
健康な状態だけを望んでいれば、突然の病気に立ち向かうことはできません。
引き受けたからには、できるかぎりのことをしてあげたい。
費用面や環境の整備も含め、自分の「できるかぎり」がどこまでなのかを
知っておくことも必要です。
そんな自信もなくなって、できるだけ気にしないようにしていた銀次ですが、
銀次は「ここに決めたんです」とばかりにエフの軒先に座り込むようになりました。
今から思えば、風太が銀次に「今ココ、チャンス!」と教えてあげたように思います。
風太が生きていたなら、どんな状態のコであれ当然3匹目はありえませんでした。
ご近所から「あの猫汚いから保健所を呼ぶよ」と言われたことがきっかけで
去勢手術のみの目的で保護し、銀次が抱えていた病気を知ったわけですが、
またも病気のコが2匹になってしまうのですから、当然悩みました。
悩んでも答えなんて出ないというか、答えは同じというか、
その時その時の「精一杯」は、猫たちから教わっています。
治療の判断は、主に獣医さんの意見を参考にするわけですから、
信頼でき、共に取り組んでくださる(と自分が信じられる)先生と出会うこともたいせつです。
それでも動物の治癒力や生きようとする力は、
医学的診断を軽々と跳び越えることも多いです。
風太もれんちゃんも、深刻な症状も統計も余命の宣告も安楽死のタイミングも
ほとんどスルーしました。
銀次のことも、こうなった以上は銀次の精一杯の生に寄り添ってあげよう、
と徐々に思うことができるようになりました。
病気は「イコール死」ではなく、「どう生きるか」そのものであると、
病気を怖れることのない動物たちから教えられます。
「かわいそう」なんて言葉がまったく当てはまらないほど、彼らは常に
気高く強く、前だけに向かって生きています。
自分がそうなったときに応用できるかはまったく自信がありませんが、
たいせつなことを日々たくさん教わっています。
風太が風になって、今日で二年が経ちました。
四十九日の頃は、桜が満開でした。
春風が吹くと、風太の黄金の毛が頬にあたる感触を思い出します。
風太は今でも、浅草の龍神さまの背中で風を切って、
れんちゃんと銀次を守ってくれています。
なので銀次親分は今日も元気です。
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